プロフィール

はじめまして、心身堂鍼灸院 院長の佐野佑介(さのゆうすけ)です。

院長プロフィールプロフィールをご覧いただきまして、ありがとうございます。

ホームページを読んで少し気になっているけれど、どんな人が施術を行っているのかわからないと怖いですよね。

病院のように薬や機械だけで行う治療と異なり、直接触れることであなたの回復のお手伝いをしていく、鍼灸・整体の施術では、相性も大きな影響があるので、誰から受けるのかでも大きく結果が変わってきます。

特に当院は心理的なアプローチを行うこともある為、私があなたにとって安心して話が出来そうであることも大切です。

私がどのような人なのか少しでもわかるように私がどのような人生を生きてきたのかを知って頂きご参考に頂ければと思います。

過去の自分の心理分析を交えながら、ところどころ重い話もありますがぜひ一読お願い致します。

生まれも育ちも浜松市

公務員の父と専業主婦の母。兄姉私の順番で3人兄弟の末っ子として1984年の12月に生まれました。

一歳を過ぎても言葉を話さなかったことから病院で調べたところ、耳の中に水が溜まる病気(おそらく滲出性中耳炎)で子供時代は聴力が低かったようです。定期的に耳鼻科に行っていました。

成長して自然に治る小学校3年生ぐらいまでの間はプールに入ることを禁止されていたので、いまだに泳ぐのは苦手です。

聴力もは今は正常範囲まで回復していますが、飲み会や人混み、TVが付いている状態など、色々な人が話している中で特定の人の言葉を認識するのが苦手です。当院が完全予約制で複数人の方を同時並行で施術しないのは話に集中する為でもあります。

幼稚園は旭丘幼稚園に通っていました。行くのがすごく嫌で幼稚園バスに泣いたまま押し込まれるみたいな子供でした。おそらく分離不安があって幼稚園へ行くことを渋っていたのだと思います。

小学校卒業までは半田山に住んでいて、小さいながら兄の背中を追いかけて暗くなるまで山の中を走り回って遊んでいました。

怒ると壁や柱に頭突きで頭を打ち付けて感情を発散するという、異常な行動を小さいころから良くする子でした。

親の言うことを聞かない、気に入らない行動や態度があると、しつけとして家から閉め出されるという教育を受けました。最終的には家に入れてくれるものの、閉め出される度に自分は必要ない、いらない子なのだと感じて泣きながら靴下のまま外を歩いていた記憶が強く残っています。

私自身は大人になってから聞いたのですが、幼稚園から小学校低学年ぐらいの間に、床屋さんで円形脱毛症が出来ているのを指摘されたことがあるそうです。

小学校に入学したぐらいだったと思いますが、両親の関係があまりうまくいっておらず、ある朝目覚めたら母がいない状態で、自分を置いて行かれたことが捨てられたようですごく悲しかったのを覚えています。

私が小学校2~3年生ぐらいの時に大きな夫婦喧嘩があり、「どちらについていくのか考えておきなさい」というような言葉を父からいわれた記憶があります。結局、その時は喧嘩のストレスで母が胃けいれんを起こして入院した為、うやむやになって収束しました。

それからしばらくして父が単身赴任となり、母と兄姉の4人で生活する期間が3年ほどありました。夫婦喧嘩になる機会が減ったことで、家から閉め出されたり、父の愚痴を母から聞かされるなどはありましたが、父が数ヶ月に一度帰ってくると嬉しかった覚えがあります。

兄が喘息持ちだったため、鍼灸治療をつけており、お腹を壊したときにそこで教わったお灸を母が足にしてくれた記憶があります。

今もお灸の匂いで落ち着くのですが、私が鍼灸師になった何らかのきっかけにはなっていたのかなと振り返ると思います。

私が小学校5年生になる前ぐらい父が単身赴任から戻っては来ましたが、両親の関係は相変わらず良くない状態が続いていました。

そんなある日、母が少しずつ溜めていたお金を父が見つけてこっそり使っていたらしく、そのことに気が付いた母が残っていたお金をばらまいて、目を血走らせながら「あいつ殺してやる」といって家の中で大騒ぎを始めました。

父がまだ帰ってきていなかったので、何が起ったのかを聞いて宥めようとしましたが、うまくいかず、その日父が帰ってきて喧嘩が始まってからも、母が父を殺してしまわないか不安で不安で仕方がなかったことを覚えています。

幸い暴力沙汰にはなりませんでしたが、そういったこともあり、父と母の関係はどんどん悪化の一途をたどっていきました。

その後、家族会議が行われ今後どうしていくのかが話し合われましたが、修復不可能だから私が大人になるまでは離婚しないということだけを告げられました。

それからは、両親が顔を合わせると喧嘩するor無視しあうような冷戦状態の中で、両親が喧嘩しないように気を使いながら、板挟みにあいながらの生活が続きます。

経済的な理由もあって中学校入学と同時に母親の実家へ引っ越し、実家近くの中学校へ通い始めます。小学校の友達と離れることに対して特別ごねたりということもない良い子を演じるようになっていました。

中学に上がるとコンピュータと心理学に興味を持つようにもなり、心理学の簡単な入門書を読み始めるようになります。

おそらく自分の中の無価値観を何となく自覚し始めた時期で、自分に価値を感じられるような何かを求めるようになり、自分の中の価値観も「価値がない人間はダメだ」という歪んだ認知を持つようになっていきます。

立ち眩みや片頭痛が出てくるようになったのもちょうどこの時期で、片頭痛は鍼灸師になって自分の体に自分ではりをするようになるまで、続きました。

立ち眩みは起立性調節障害の子供と出会うまで、立ち上がればクラっとすることが普通のことだと思って異常であることに気が付いていませんでした。(朝起きるのもかなり辛かったので、おそらく軽度の起立性調節障害を発症していました。)

中学を卒業後、コンピュータの勉強が出来る工業高校へ進学しました。

しかし、高校1年生の終わり頃になり、母が「もう耐えられない」といって、あっさり両親の離婚が成立しました。

兄は既に家を出ており、父の悪口を子供の時から聞き続けていた私は母方に残り、佐野の姓もこの時に変わったものです。

母は専業主婦で40年以上も働いておらず、メニエール症候群で良く寝込んでいた為、経済力もありませんでした。父から養育費は出ていましたが、母子家庭となり家計を支える為にコンビニで週6日5時間バイトをしながらの高校生活を過ごしました。

高校卒業後、祖父母が援助を申し出てくれたことと、姉が就職して生活に関しては支えてくれるようになっ為、プログラミングを学ぶために大学へ進学させてもらいました。

大学1年の時は講義をとれるだけとって、朝から夕方までほとんど大学に行き通しで卒業単位の半分近くを1年で取り終えていました。

この頃から、母と喧嘩した際や過去の記憶ことを思い出すようなことがあると「自分の存在を消してしまいたくなるような感覚」に襲われたり、些細なことで怒って感情が不安定になる、感情が高ぶりすぎると過呼吸気味になったりするようになりました。

ストレス過多で自傷することも何度かあり、ストレス過多になると傷跡が残らないように自傷していました。この経験がある為、自傷跡が残っていたり、最近自傷された方が来院されても気持ちがよくわかるので無理に止めるようなこともせず、適切な対応が出来ます。

自分の心がどこかおかしい感じはしていましたが、自分の心の中を覗くのが怖かったこともあり、普段は何も起こらない為、それ以上深くは考えず、心理的なケアを受けることもなくそのまま過ごしました。

大学での成績そのものはそこまで悪くなかったものの、プログラミングを本格的に学ぶほど、基本的な論理的な思考は理解しても上には上の人がいて、そういう人を見るとプログラミングは私の無価値観を埋めることが出来るものではなくなり、プログラミングへの興味が色褪せていきました。

鍼灸師を目指す

そうやって悩んでいるうちに、鍼灸師(しんきゅうし)という職業に興味を持つようになりました。

人の役に立つ仕事をすることで、自分の無価値観が埋められると無意識に感じていたのかもしれません。

また、東洋医学には鍼灸で心にアプローチする(身体的なストレスを改善することでメンタルが安定する)ことが可能であるようなことも知り、より興味を持つようになりました。

鍼灸師を目指し始めたわけですが、さすがに祖父母に専門学校の費用まで援助してもらうわけにはいかず、昼間は大学に通いながら鍼灸の専門学校の学費を稼ぐために地元のレンタルビデオ店でアルバイトという2重生活を始めました。

通学も片道一時間半かかる大学だったので身体的にはきつかったですが、1年で単位をかなり取りえていたこともあり、バイト先の人もも必要としてくれているということにとても充実感を持って働くことが出来ました。

鍼灸専門学校へ入学し、免許取得

大学卒業と同時に常葉大学医療専門学校(現:常葉大学健康鍼灸学科)鍼灸学科へ入学し、鍼灸師の国家資格を取るべく練習と勉強に明け暮れます。

入学当初の私はクラスでもダントツに鍼(はり)もお灸(きゅう)も下手で、実技がある日はほぼ例外なく居残り練習でした。

私はとにかく上手くなって、いろんな人を治しまくれるようになりたい(無意識に自分の無価値観を感じたくない心理もあったので)一心で人の3倍練習すると決め狂ったように毎日練習と勉強にあけくれていました。

しっかりと理解するまで何度も本を読むという習慣はこの時に身につき、この習慣は今も役立っています。

2年(学校は3年制)の時に、刺さない鍼(はり)に興味を持つようになり、刺さない鍼をメインに行っている鍼灸師の勉強会にも参加するようになり、東京や滋賀まで毎月のように出かけて勉強していました。

卒業する時には実技、勉強の方もクラスでトップレベルの成績で国家試験も満点にかなり近い成績で免許を取得しました。

そして卒後、無事、鍼灸師の国家試験を通過して免許を無事取得しましたが、卒後1年は知識の幅を広めるために、登録販売者っという薬の資格取得のために地元の杏林堂薬局で実務経験を積み、翌年受験し合格しています。

結局、資格自体は使用していないのですが、薬学の基礎を学び理解するきっかけとしてとても意義がありました。

法律上、薬についての相談や指導はできませんが、十分な薬のメカニズムの説明を受けていないことで不安になられている方に説明を行う際に役立っています。

はり修行で挫折する

就職先の鍼灸院ははりを刺さない鍼灸を学ぶことが出来るという理由で、就職しました。

学校の実技でも認められていましたし、毎月勉強会にも出ていたので修行を積めば立派な鍼灸師に成長できると安易に考えていました。

就職先は今思い返すと支配的な院長先生だったのだと思いますが、人間関係を上下、支配関係、恐怖の中で育ってきた私にとって、対等に接してくれる優しい先生は苦手であったのだと思います。

理不尽な苦しいことにも耐えないとはりは上達しないと、よくわからないことを信じていました。

わからないことを聞くとそれぐらい考えられなくてはダメだ!と叱れ、聞かずに考えて行動すると勝手に判断して行動するな!と叱れるといういわゆるダブルバインド(心理的な二重拘束)を受けることの多い職場で、次第に怒られることを避けることが目的化していきました。

注意をされたことに対して、直そうという想いと同時に、そんなこともできない自分はなんてダメな奴なんだと自分を責める毎日を繰り返していました。

就職してから毎月風邪をひいては治るを繰り返したり、ひどい腸炎になって血便が毎日のように出て便器が真っ赤になっていたこともあります。そんな状態でも病院にも一切行かずに出勤を続けていました。

半年過ぎたころから、毎日ずっと眠たい状態なのに頭の中はずっと緊張したような状態、電話応対の際の言葉を常にチェックされるので電話が鳴ることが怖く、院長が言葉を発する度に緊張から心臓が絞まって息が止まるような感覚、動悸、胸が痛い、甘いもの過食などの症状が徐々に増えていきました。判断力も低下してミスも増え叱られることも増えるという悪循環でした。

そして、働き始めてから1年になろうかという時に、担当していた勉強会の資料作りの連絡不備の謝罪のメール内容について院長、院長夫人からひどく叱られたことがとどめになって、職場で過呼吸発作を起こして倒れてしまいました。

この日を境に仕事もできる状態ではなくなってしまい、そのまま実家に戻って療養生活を送ることになってしまったのです。

ずっとざわざわしていて、頻繁に過呼吸になり、胸が苦しく、動悸が止まらない。私の人生終わったと思いました。

希死念慮も強く出るようになり、電気コードなど紐と引っ掛けられそうな場所をみつけてはあそこに引っ掛けて首を吊って楽になれるんじゃないかみたいなことが毎日頭の中でぐるぐるしていました。

再び戻ってきて姉にも経済的に迷惑をかけていると思うと、自分なんていなくなればいい、消えてしまいたいという気持ちでいっぱいでした。

パニック発作を起こす前から、仕事が上手くできない自分はこの世に必要のない人間なのではないかという感覚を感じることが徐々に強くなってきていましたが、おそらく小さい時に作った「自分はいらない子だという感情の抑圧」が出来なくなり、一気に襲い掛かってきたのだと思います。

価値がない人間はダメだという中学生ぐらいの時に身につけた歪んだ認知もさらに自分を苦しめていきました。

パニック障害からの社会復帰

実家に戻ってからもパニック発作はおさまらず、パニック障害の症状である過呼吸、動悸、理由のない恐怖、不安に襲われる、自律神経失調症の症状である息苦しさ、手足のだるさ、うつ状態、希死念慮、手足の異常発汗で手足の皮がべろべろにめくれるなどの症状と毎日戦っていました。

幸いなことに不眠ではなく過眠だった為、昼頃まで寝て少量食べて30分ぐらいして寝る。夕方起きて少量食べて眠るといった感じで、トイレなどを入れても起きている時間が4時間ないかぐらいで、ほとんど寝ているだけの生活を1ヶ月ぐらいしていました。

今振り返るとこれは回復するために体が頑張っていてくれたのだと思います。ここで無理して動いていたら、おそらくもっと悪くなって、もしかすると希死念慮ではなく実際に行動に移して既にこの世にいないのかったかもしれません。

ほぼ寝たきりの生活をしていて、少しだけ回復したところで精神科を受診して投薬治療を受けました。 しかし、薬をまじめに飲んでもあまり症状の改善は感じられませんでした。

本当はすぐに自分で自分にはりをすればよかったのですが、はりを見ることでフラッシュバックするかもしれない恐怖から、なかなか自分自身にはりを行うことはおろか、はりを見ることすら怖くて出来ませんでした。

近くの漢方薬局で漢方薬を調合してもらい、それを飲んだところ若干ですが体調が改善し、胸の痛みがやわらぎました。

しかし、ある程度まで改善してからはその漢方薬でも、さらに症状が良くなっていくということもなく、失業保険がかけられていなかったり、最後の月の給料が出なかったこともあって、治療費に出せるお金も徐々に底をついてきました。

漢方薬のおかげで若干体調が改善したため、今ならはりを使う恐怖を克服できるのではないかというかすかな希望と経済的に追い詰められてきたこともあり、勇気を振り絞って自分で自分にはりを行う事をし始めました。その頃から、徐々に起きていられる時間が増え、うつ状態が改善され、希死念慮も弱くなり、日常生活が送れるようになってきました。

そして、パニック障害発病から4ヶ月後には、まだ動悸や不安感などもあり、何かすると疲れてすぐに眠くなり、数時間の睡眠は必要になる状態ではあるものの、起きている時間も増えて日常生活が送れるようになってきました。

外出も数時間であれば出来るようにもなってきたので、社会復帰を自分でも考えるようになりました。

相変わらず疲れやすく動くと寝ることは多いものの、動かなければ昼間に眠らずに過ごすことも出来るようになってきました。元通りに戻っていると思ったのか、「私がどれだけ気を使って生活してるのかあんたわかってるのか!」という圧力も母がかけてくるようにもなってきました。

しかし、ちょっとしたプレッシャーでも動悸と息苦しさが出て、物凄い不安になり易い状態ではあった為、再就職してまた同じようにおかしくならないか?バイトを始めて仕事内容を教えられる際に怒鳴られた記憶がフラッシュバックしてこないかという恐怖と、1時間外出するだけでも眠気がすごく強く出るなど、体力もまだまだ戻っていない状態でバイトをするのも難しい感じがしていました。

色々考えた結果、自分のペースで仕事が出来るように実家の使っていなかった部屋を借りて開業という道を選びました。

開業当初は知人を中心に診させて頂いておりましたが、それでも一人診させて頂くと眠気とだるさがひどくなりその日1日は寝ているという状態でした。

開業したばかりで、来院してくださる方も少なかったこともあり、開店休業状態ではあったものの、本当に少しずつ仕事の量が増えていくことで社会に戻る十分なリハビリが出来たことで再発することなく徐々に社会復帰することが出来ました。

そこから徐々に、1日に2人、3人と1日に診られる人数も徐々に増えていき、来院される方も少しずつ増えていきました。

精神科でもらっていたパキシル(SSRI)もしばらく飲み続けていましたが、効果を実感できないことから勝手に薬をやめました。(危険な行為なので真似はしないでください。)薬をやめてから急激に体力が戻って活動した後に眠くなることも少なくなり、活動量も増えていきました。

パニック発作はほとんど出ておらず、胸の違和感や焦燥感、不安感、動悸などの症状が出たりでなかったりという感じではあったものの、無視してそのまま動いていれば気にならなくなるので、気にせず生活をしていました。

鍼灸院の方はありがたいことに、徐々に来院してくださる方も増え、色々な症例を診させて頂くうちに、自分が頭痛の改善が得意だということに気がつき頭痛について専門的に勉強して、頭痛専門の鍼灸院へとシフトしていきました。

私自身が中学の時から悩まされていた片頭痛は鍼灸専門学校時代に自分の体に自分ではりをすることで改善できていた経験があった為、得意だったのかもしれません。

頭痛専門にしたことで、様々な頭痛の症例を担当させて頂くことになりましたが、症例数が増えるにしたがって、改善できない頭痛と遭遇することも増えるようになり、どのような共通点があるのかを模索し始めます。

そして、辿り着いた結論が自律神経の乱れや心理的な問題などを抱えた方の頭痛であるということでした。

そのヒントになったのが、仕事をやめたら頭痛がそれ以来でなくなった方、高校をやめて通信制へ転校したら頭痛がでなくなった方の存在です。

お一人はハードワークで、もう一人は学校のことで、ひどく悩まれていました。

悩み事を抱えられて頭痛で来院されている方に、自分の感情を抑圧することをやめるように提案(リフレーミングという簡単な心理療法)させて頂いたところ、環境を変えずに頭痛が改善する方も出てきました。

心理的アプローチをすることで悩み事の捉え方が変わって頭痛が改善されていかれる方と、悩み事の捉え方を変える心理療法では改善が難しく、環境を変えない限り症状が続いてしまう方、両方がいることもこの時にわかってきました。

心と体の関係に気がつき、施術法が大きく変化する

徐々にパニック障害やめまい、動悸、だるさといった自律神経失調症の方を診させて頂く事も増えてくる中で、身体と心の関係性に気がつきます。

それは、肉体的に首肩や背中がひどくこっているという肉体的な共通点があることに気がついたのです。

心や自律神経系の問題は基本的には心療内科や精神科の疾患ですが、改善がスムーズにいく方というのは首の筋肉のこりがしっかりと改善しているという整形外科の領域である首こりが改善しているという共通点もあったのです。

自分自身のパニック障害の改善にはりをした際に首コリと何か関係がありそうだなとぼんやりと感じていたものの、首肩や背中の筋肉のコリが自律神経の影響を受けやすいことに初めて気が付いた瞬間です。

まだこの時には、施術で首肩こりを改善したり、姿勢を改善したり、脳脊髄液の循環を促したり、内臓の機能を高めつつ、心理的アプローチと組み合わせると改善率が高まるということにぼんやりと気が付き始めた段階です。

たまたまその時期に不安感(パニック障害)を主訴に通われていた方が、首肩こりや背中の筋肉を緩めるようにしたら不安感が改善し始めたことで、自律神経系の重要性を改めて感じるようになり、書籍で勉強するだけでなく自分の身体を実験台に様々な施術や心理療法を試していくようになります。

移転を契機に自律神経専門へ

開業以来、実家の一室を鍼灸院として利用させてもらっていましたが、母の趣味のガーデニングが駐車スペースを使われていて思い通りにできない、鍼灸院の経営方針を母の言うように経営しないなら、出ていくよう言われていました。

経済的にも独立が可能な状態だったため、2017年和地山への移転を機に心と体の両方の健康のお手伝いをするというコンセプトの自律神経専門院として再出発をすることにしました。

パニック障害の発症から5年が経過してパニック発作は全くといっていいほどでなくなっていました。

日常生活に支障が出るほどではありませんが、時々不安な感情が上がってくる、胃のあたりが差し込む、気分が落ち込む、ごく軽い希死念慮、息苦しいなどの自律神経の症状は、季節の変わり目や寒さが厳しい時期、強い心理ストレスがかかっているときは出る状態は依然として続いていました。

一人暮らしになり自由になる時間も増えたことで、施術法と心理療法の研究に没頭していきました。

認知行動療法を行うことで、認知の歪みが改善されて心理的に楽になる部分は出てきている一方、認知の歪みにまで気が付いて、認知行動療法をやっても思ったように認知を変えられない認知の歪みがあることもこの辺りから自覚するようになります。

しかし、再現性も高く、来院される方にも認知行動療法のやり方をお伝えして実践して頂くことで楽に考えられるようになってリラックスできるようになったという方も多く、この認知の歪みが改善できないタイプの認知の歪みと認知行動療法で改善できる認知の歪みの違いは何なんだろう?と考えるようになってきました。

アキレス腱を切ったことで自律神経の改善法の間違いに気が付く

改善できない認知の歪みについてもやもや考えてはいましたが、答えにたどり着けないまま過ごしていました。

そんな時、久しぶりに行ったスポーツ中に右のアキレス腱を切ってしまいリハビリで運動を行う必要が出てきました。運動習慣がつくようになってから、残存していた自律神経症状の一部が緩和されるようになってきました。

今まで施術と心理療法だけで改善しようとしてもある一定以上改善が進まなかった自律神経の残存症状が、運動をするようになってから改善し始めたのです。

施術や心理療法を使った自律神経症状の改善方法を6年以上も研究してきた私にとっては衝撃的な出来事でした。

インターネットで「自律神経 整える 方法」などで検索すると数多くの自律神経を整える方法が出て来ますので、私も色々と試したことはあったのですがあまり効果的ではないと考えていました。

しかし、やり方と効かせ方、そしてそれぞれ効果的な条件があるのではないのか?と考えるようになりました。

それから徐々に運動、栄養、呼吸、睡眠、光、生活習慣など、生理学的な観点からどういうメカニズムで効果が期待できるのかを一つずつ理論を勉強し、自分の身体で効果を出すためのやり方のポイントを探すために実験を繰り返していきました。

今までは、「施術で自律神経を整えることが出来る!」という少々乱暴な考え方でしたが、運動を開始したことをきっかけに、多角的な視点からアプローチしていくことで、より効果的な自律神経の改善が可能だという、より人体の事実に即した今の考え方にシフトしていきました。

また、栄養療法や運動療法をやることで、認知行動療法単独では効かない認知の歪みも、他の両方を行った後に再度、認知行動療法を行うと認知の改善を行うことができるようになるものがあることもわかってきました。

例えば、低血糖状態が続いている方に認知行動療法をいくら行っても、低血糖状態では神経細胞が使えるエネルギーが乏しい為、脳(神経細胞)があまり働くことが出来ず、正しく認知行動療法が出来ないことで、効果が出ないなどです。

しかし、低血糖状態を改善したとしても、認知行動療法を行わなければ認知の歪みから来るストレスは受け続ける為、いつまでたっても体調が改善しないといった複数の療法を組み合わせることが改善上とても大切になることも多いことがわかってきたのです。

心理療法の落とし穴に気が付く

今まで実践してきた心理療法は認知行動療法やアドラー心理学などをベースに、今ここからどうやって生きていけばよいのか?を対象とした心理学ばかりに傾倒していました。

それは私自身が過去の自分の成長過程の辛い体験と向き合いたくなかったから、無意識に避けていたのだと思います。

そんな時に、ある一冊の本と出合います。「死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威 (光文社新書)」です。

今まで認知行動療法だけでは不十分な理由や自分自身の発達障害的な傾向がなぜあるのかがとてもよくわかる一冊です。

また、「子どもの脳を傷つける親たち (NHK出版新書) 」なども、とても参考になりました。

私の無価値観や認知行動療法でも修正が上手くいかない認知の歪みは、養育環境の中で生き残るために適応しようとして脳を変形させていった生き残り戦略による影響だったのです。

結果的にそれがパニック障害や自律神経失調症の症状で苦しむ原因にもなってはいたものの、元々は自分を守るために行った脳の変化だったのです。

過去の辛い体験と向き合っていく作業はとても辛いですが、一つその辛さと向き合うことで無意識で緊張していたことがなくなりリラックス出来るようになり、残存している自律神経症状もさらに少なくなっていきました。

広い意味で愛着理論によるものですが、私のようにマルトリートメント(不適切な養育)を受けて育つと、体調が悪くても頑張り続けてしまう、他人の顔色が気になって緊張状態にいる、強いストレスを受ける相手や組織との関係を継続してしまう、周りの人に助けを求めることが出来ないなど、心身を病んで客観的に休むのは仕方がないという状態になるまで長期ストレスから離れて自分を守るという行動がとれないのです。

私も過呼吸発作を起こして倒れた日に、「過呼吸が少し治まったので大丈夫です」と言って、ふらふらしながらでも夕方からまた働こうとしていました。

マルトリートメントが関わる自律神経の問題

マルトリートメントを受けて育つと、自律神経失調症、不安障害(パニック障害、限局性不安障害、社交不安障害)、うつ病、起立性調節障害といった病気を発症するリスクが高いことが指摘されています。

もちろんそれだけが自律神経を乱す原因のすべてではありませんが、責任感が強い、失敗を極端に恐れる、人の顔色を伺う、べき思考、完璧主義など、マルトリートメントを受けて育った方が持ちやすい性質を持たれている場合には養育環境に原因を探っていくことは有用です。

マルトリートメントは不適切な養育というかなり広い概念で、日常的に暴力をふるわれる、食事を与えられないなどのネグレクト、性的虐待といった、虐待という表現がふさわしいものも含まれる一方、応答的ではない子供への対応もマルトリートメントにあたります。

応答的というのは、子供が必要としているタイミングで必要な手助けやお世話をを行うということです。

例えばお菓子を買ってもらいたくて泣き出した子供に対して、お菓子が欲しいという気持ちを共感して、受け入れ、感情をなだめる手助けを行うことです。

反対に、冷たく無視をしたり、否定的な言葉を発して親のしたい子育てを押し付けたり、子供の言いなりになって欲しいというお菓子をどんどん買い与える行為はマルトリートメントにあたります。

助けを求めたタイミングで共感的態度で接してくれたかどうかが重要なポイントです。

色々とお世話を焼いて、良く褒めてくれた、愛してくれた、良い両親だったと言われている方の中にも本人が自覚しないように感情を抑圧しているだけで、共感的態度ではない隠れマルトリートメントを受けられている場合もあります。

例えば、良く褒めてくれたり、かわいがってくれるけれど、「何かできた時」など親が求める子供でいた時にだけ、褒められたり愛してくれていたという、条件がついた愛情をかけられることが多かったり、「あなたの自由にしていいよ」というのに、本当に自由に自分のしたいようにすると親の表情が曇るなどです。

このほかにも、親が子供に代わって正しい方法やうまくいく方法を色々決めてくれたり、常に洋服を選んでくれる、失敗しないように予め答えを教えてくれる、年齢に合わせた自立を認めてもらえない(過保護)に育てられるなどの場合も、適切なストレスをかけられて育たない為、子供の脳の発達を阻害して脳の変形を引き起こすマルトリートメントになります。

私も末っ子だったこともあり、良くかわいがってくれていたのですが、振り返ると言葉では好きなようにしていいよというけど、実際に私が好きな行動とると親が不機嫌になったり、こっちにしておきなさいと結局私の意思を無視される、騒ぐと物やお菓子をあてがわれるなど、隠れマルトリートメントも併せて受けていました。

私の場合は両親が不仲であったなどのわかりやすいマルトリートメントを合わせて受けていたことで適切な養育をうけられなかったということを自覚しやすかったのです。

しかし、隠れマルトリートメントだけを受けて育った方は、自分がマルトリートメントを受けていたことに気が付いていないことがほとんどです。

自分が親から無条件の愛を与えられていなかったという悲しい感情を抑圧している分、私の両親はとても良い親で私のことをすごくよく考えてくれるなど、親に強すぎるぐらい強い感謝や親を好きだという感情を強く持つことで、自分を受け入れてもらえていない悲しい感情を抑圧して、両親を客観的に見れていない場合も多いです。

しかし、なぜ私は生きるのが苦しいんだろう、自律神経失調症、不安障害、うつ病になってしまったのだろう?という状態で来院された場合に、改善できるかどうかというのは殴られたり罵声を浴びせられるといったあきらかなマルトリートメントを受けてこられた方よりも難しい場合もあります。

隠れマルトリートメントだけを受けられて育った方の場合には、本人が無意識に辛い感情を抑圧してパンドラの箱のようにしてしまっています。改善にはその箱を開ける必要があり、開ければ当然辛い感情が出て来るのを無意識レベルではわかっています。

過去に抑圧してきた辛い感情に向き合うことは苦痛と恐怖が伴います。

自律神経の問題を抱えて来院されてこのようなマルトリートメントが根本的には自律神経の不調に関連している可能性があることをご説明させて頂いた際に、辛さを感じたとしても今後の人生をよりよく生きていくために改善していきたいと前向きに改善に取り組まれる方であればよいのですが、抑圧している感情が強ければ強いほどそう簡単にはいかなくなります。

今まで辛い感情を見ないように抑圧して、気が付かないふりをして、元気なふり、平気なふり、幸せなふりを一生懸命頑張って生きてこられた方であればあるほど、マルトリートメントを受けていた可能性を指摘されると、今まで人生をかけて守ってきたものが崩れるような恐怖を強く感じることになります。

恐怖感情が怒りになって、「人生を否定された」と私に怒りをぶつけてこられる方もいます。それだけ誰にも辛さを打ち明けることもできず、抑圧しているので辛いのはわかるのですが、どうしてあげることもできない部分でもあります。

マルトリートメントと自律神経の問題が結びついてしまっている時は、このように心の防衛反応が動いてしまわないように、説明が本当に難しいと日々感じながら臨床を行っています。

おわりに

長文にお付き合いいただきありがとうございます。私の人柄や改善方針について少しでもご参考になれば幸いです。

自律神経に異常を感じた初期に長期ストレスから離れて、十分な休養を取ることが出来れば治療が必要なほど深刻な状態まで悪化することはあまりありません。

しかし、自分が自分を大切にできない理由を知ったり、その傾向があることを自覚する必要がありますが、それは同時に過去の辛い感情と向き合うことでもあります。

心身堂鍼灸院は、私があなたの病気を治すような場所ではありません。

あなたが、あなたを大切にできるようになること、そのきっかけとなる場所です。

自分の心や体の声を聴けるようになり、あなたがあなたを肯定した生き方をしていくことで、自律神経の問題はどんどん良くなっていきます。

もちろん、身体的な問題から自律神経が乱れている場合には、施術で改善の手助けになるようサポートさせて頂いています。

当院があなたの気づきの場になれるようお手伝いさせて頂ければ幸いです。

資格等

・はり師きゅう師(国家資格)
・医薬品登録販売者(合格)